働くということ

 

社会に出て、働いて、それに見合った給料をもらって生活する。

働くということは、どういうことなのだろう。

 

間違ったら叱ってくれて出来なかったことが出来るようになったら褒めてくれる、だいすきで素晴らしい上司がいる。

 

話が長いしいつもネチネチ言ってくるけど、わりと話がおもしろく職場をより良いものにしようとしてくれる店長がいる。

 

バイトして初めて出会って、話は面白いし一緒に働いていて楽しい同僚や先輩がいる。

 

とても良い職場だと思う。ここで経験を積ませてもらえてわたしはラッキーだとも思う。

 

ただどんな職場にもひとつやふたつ、なにかある。嫌な人がいたりだとか、変な人がいたりだとか。良い人がいるのだから嫌な人もいる。それが、うちの料理長だ。

 

わたしにだけ聞こえるように嫌味を言ってきたり、不機嫌なときは冷たく当たったり、ものすごく自分中心の働き方をする。良い雰囲気づくりをしようなんて意識が微塵もない。

 

一緒に働いている人の気持ちを考えたことが一度だってないのだろうか。あれじゃ、大人という肩書きを背負った悪餓鬼だ。

 

高校生のアルバイトでさえ、失敗しようがお客さんに怒られようが上司に怒られようが気丈に振る舞い、職場という環境の雰囲気づくりを務めているというのに。

 

店長の悪口はみんな言うけど、料理長の悪口は誰一人言わない。それはなぜなのか。それともあの料理長の態度はやはりわたしにだけなのか?怒鳴るのも、罵倒するのも、小声で何か言ってくるのも。

 

理不尽なことで怒鳴られて罵倒されても、冷たく当たられても、笑顔でいることが働くということなのだろうか。

それは、仕事だからという理由で割り切らなくてはいけない当たり前のことなのだろうか。

何もしていないのに怒鳴られたり睨まれたりしながら働くことが当たり前だと思わなければいけないのだろうか。

 

ここで逃げたらわたしは後悔するのだろうか。

 

働くって、どういうことなの。

欲しいもの

私は人に頼るのがすごく、下手だ。

何かあったら頼ってねと言ってくれる人はいる。宛はいくつかある。頼りたいとも思う。それなのに、頼るのは良くないことだと思う自分がいる。

 

その癖、私に頼る友達は多い。少しくらい自分で対処できないのかと思う反面、そんなに素直に人に頼れる人を羨ましく思う。きっと上手に生きていける人はそういう人なんだろう。

 

私は人に頼られていることの方が多いから、頼られなければ人とのつながりや自分の存在意義が見い出せないような感覚になる。でもそんなことは無いし、もっと頼っていいんだろうけどもうずっと昔から頼るのが苦手だ。

 

甘えるのも苦手だった。それでも恋人には甘えたりしたし素直な気持ちはちゃんと言った。なにが負担だったのかははっきりとわからないけどきっと部活の全部の事象が彼にとっては負担だったのだろう。もう、ずっと昔のことのように思う。それでも私はあの人に拒絶された。

 

表は明るく誰とでも付き合える。友達としては最高の友人だっただろう。だけどそれが恋人としてうまくいくかはまた別の話だ。裏の顔はとんでもなかった。精神的に弱く、自分の思い通りにならない小さなことをぜんぶ事細かに指摘する。拒絶されてショックではあったけど早くにそんな面が見えてよかった。早く見切りをつけられたと思った。

 

でもそれから、恋は恐ろしくてできない。進もうと思えないのだ。友達は私に臆病だと言うけれど、表と裏のあまりのギャップに本当に絶望したなんて私しかわからない。

 

そんなのその人だけで世の中にはもっといろんな人がいるんだから、と言う人もあるだろう。確かにそれは正論だ。でも私にはそれが錆びのようになってずっと張り付いている。

 

度々、強くて安心する腕に、あったかい体温に、抱き締められたいと訳もなく心細くなったりする。だけどそれに絶望するのはもう嫌なんだ。私は私を支えてくれる人を支えようとは思う。ちゃんとお返しはする。好きなら無条件にたくさん与えるだろう。でもそれと同時に私への変わらない愛がほしい。私だけへの。それはもしかしてとんでもないエゴなんだろうか。

 

最近はよく「間違ったら叱ってくれて自分のことは自分で死ぬほど頑張れ、だめだったら俺が助けてやる」と言っていつも私を支えてくれた人のことを思い出す。本当に好きだった。その人に変わらない愛はなかったけど、それでもよかった。なんどもなんども嫌いになってなんどもなんども好きになるくらいにはバカだった。好きだった。あれが恋だと思う。

 

また、そんな恋に巡り会えたらいいな。当分無いだろうし同じ人は二度と現れないのだけれど。

嫌いな自分

私には、4年目の付き合いになる女友達がいる。名前をここではTちゃんとしよう。

 

Tちゃんはおしゃべりだ。よく自分のことを話す。よく笑う。そしてよく泣き、よく怒る。喜怒哀楽が激しくとても素直な女の子だ。

 

Tちゃんは人の話を聞けない。正確には、聞こうと思えば聞けるのだが私に気を許しすぎていて(そのくらい仲がいいのだから当然といえば当然だが)気を遣わないために私の話を聞こうとしないのだ。あの子は聞こうとしなければ聞けない。何故なら人は大抵の場合、人の話を聞くより自分の話をしているほうが楽しいからだ。

 

私はといえば、格好悪いことを言うけれど臆病代表なので人に合わせて生きてきた。小学校6年生からずっとそうやって生きてきて、自分がどんな性格なのかもう分からなくなっていた。薄っぺらい人間なのだと思った。真面目にまだ短い人生を生きてきたつもりだったしそれなりに笑いを誘うことだってできる。それでも自分がどういう人間なのかわからないのだ。そして取り分けて、わたしは自分の話が下手だった。悩み事もあまり人に話さなかった。ゆっくり静かに最後までウンウンと、話を聞いてくれる人じゃないと話せないのだ。そんな人は居ないのに。誰とでも合わせるために聞き上手になる道を選んだ為だった。大抵放っておいても人は話を始める。聞いてやれば、たったそれだけである程度仲良くなれる。それでもいつも私の心は空っぽだった。

 

今日Tちゃんが「Yのところに泊まりに行くことになったの」と言った。Yはわたしの6年目になる付き合いの友人の女の子で私を通じて2人が仲良くなったようなものだ。へえ、そうなんだと軽く答えた。「このあいだ電話で相談してたんだけど会って話した方が早いってなってそしたら泊まりにこないかって」と彼女は続けた。私はとても小さい人間で(正直なところTちゃんがいつも「あきになら何でも話せる!」という態度でいるからというのもあるが)私には話せない悩み事を相談しに行くのかと少し落胆した。私ではだめなのだ。そんなことが少し悲しくてそう思っている自分にも腹が立った。でも同時になぜそんなことを私に言うのか、とも思った。別に泊まるなら勝手に泊まればいい。2人で仲良くなればいいと思った。

 

3人という数は昔から嫌いだったのだ。ひとりがどうしても入れない話題があったりして、平等であることが難しいから。そして私は大抵1人になる。小学校6年生の時、仲間はずれにされた時も3人だった。それはやがてクラス中に広まり私は学校に行かなくなった。そんな過去をやっぱり少し引きずっているのかもしれない。

 

こんな思いをしていることは誰にも言えないし、2人が仲良くなるのを止めるわけには行かない。別に正直言ってそんな事はどうでもいいのだ。私の話を真剣に聞いてくれる友人ができればもうそれでいい。でもいない、どこにも。少なくとも今現在は。それだけがただ単にかなしい。そしてこんなどす黒い思いを心の奥底に隠している自分がとても嫌だ。

忙しい毎日で思うこと

最近は結構多忙だ。毎日手帳に書いていた日記も少しお休み中。まあ日記は、つまらない日の中に楽しかったことを記録したいと思って気を紛らせるために始めたから書きたい時に書けば良いってスタイルに近い。そっちの方が飽き性には案外続く。

 

ワーって活動して疲れて寝る、そんな毎日の繰り返しになっている。でもちょっと前みたいに楽しくないわけじゃない。相変わらず学校は憂鬱だし嫌なこともあるけど、趣味に没頭したり勉強したり、時には友達とパーッと遊びに行ったり。(その友達は4人組なんだけど、その子達についてはまた今度ちゃんと書こう)

 

このなんとなくの毎日を大人になったら青春ってまとめるんだろうなと思う。

 

でもそんな盛りだくさんの日々にはやっぱりイライラすることだってたくさんあって、最近はその怒りのエネルギーを掃除するエネルギーに変えてる。

 

そうするようになってからいつも汚い私の部屋がそれだけでめちゃくちゃ綺麗になって、いろいろなことにやる気が入る。それにイライラしてない時も掃除をするようになった。あんなに掃除がキライだったのに。キライというかまあニガテなだけなんだけど。

 

そうやって負のエネルギーを活動エネルギーに変えていくと良いことがたくさん起こっている気がする。少し悲しくなっても掃除しようとか、手を動かすことで忘れていく。文字に起こさないから忘れていくし、綺麗にストレスが浄化されている気がする。そんな私が好きだ。

 

私は自分のキライな面なんて腐るほどあるんだけど、少しでも正しく生きていたいから変わっていきたい。そう思える自分は好きだ。その「正しさ」は自分が思うもので良い。他の人から間違っていると言われようが自分が正しいと本当に心から思ったらそれがその人の正義なんだから。その正しさを追求して生きていきたい。

 

梅雨が明けたら、また忙しい夏が始まる。夏はキライだけどワクワクするのは毎度のことだ。きっと学生生活で最後の夏になる。充実感に浸って夏が終われたらいいな。